アジアの精進料理


ブッダの時代には、仏教僧は托鉢で得たものなら動物性の食品であっても食べていたから、現在でもインドや東南アジアを始めとする上座部仏教(テーラワーダ仏教)のお坊さんたちは肉を食べる。信者の喜捨・お供養によってのみ食事を得る慣わしだから、供養されたものは全て頂くという考えだ。

 

ただし、上座部僧には不殺生観に基づく、食べてはいけない肉についての決まりもあれば、正午から翌日の夜明けまで食事をしてはいけないという厳しい戒律もあるし、不殺生戒が徹底しているから、小さな虫であってもお坊さんが生き物の命を取ることはない。

中国系仏教、即ち中国・台湾・韓国・ベトナム・日本などの大乗仏教では肉食を禁じているが、現在の日本では菜食を守る僧侶は少数派だ。

ちなみにチベット系仏教は大乗仏教だが菜食ではないから、「日本以外の大乗仏教は上座部仏教と違って肉食をしない」という表現は、厳密に言うと間違いだ。

 

中国や台湾の精進料理には、植物性の材料で肉の味を再現したものがたくさんある。本当は肉が食べたいのに修行のために我慢しているんだとしたらおかしいとか、或いは本来は雑食であったヒトという生き物にとって、生物学的には自然なことである肉食を節制するための折衷策が「モドキ料理」だ、などという考えもあるが、まあこれは、単なる遊び心であると受け取るべきではなかろうか。

とりあえず「素食」と呼ばれる台湾の精進料理は、大変に美味しい。


「アジア菜食紀行」(森枝卓士著・講談社現代新書・絶版)は、 インド、台湾、ベトナム、タイ、日本などの精進料理と菜食主義について書かれた本なのだが、 1998年発行のこの本の中に、近頃、台湾では素食の店が急増しているという記述がある。

 


そして2006年発行の「台湾素食」(小道迷子著・双葉社)には、「アジア菜食紀行」の頃より、さらに流行・定着しつつある、最近の台湾の素食事情が描かれている。


参考文献 「精進料理入門」阿部慈園(大法輪閣)※ブッダ時代の食事から日本の精進料理までを解説した貴重な本ながら、こちらも絶版。
参考文献 「精進料理入門」阿部慈園(大法輪閣)※ブッダ時代の食事から日本の精進料理までを解説した貴重な本ながら、こちらも絶版。

日本の場合、禅宗などの伝統的な精進料理は内外で高く評価されているが、禅僧を含む日本仏教界全体を見渡せば、本当に精進を守っている菜食主義者のお坊さんは、ごく僅かだ。

さらに言うと、とある宗派の出版社がイタリアン精進料理レシピなるものを出しておられるのだが、その宗派の教義に照らしてみても、いまいち意味がわからない。

さて、結局のところ食に執着してはならない、他の生命を慈しまねばならないという二点が、仏教徒としては肝心なポイントだ。生物学的には当然のことであった肉食を仏教の智慧で乗り越えることによって、仏教徒は自身の心と人間社会の食品事情をより良い方向に変えて行くように、努力すべきではなかろうか。

台湾の四大宗派の一つ・佛光山が出しておられる小冊子「仏教の精進料理の問題に対する考え方」の21ページに、『菜食の主要は「心」であり、重要なのは心の清浄です』とある。

私事ながら、高校生の時に、肉食が殺生だと言うのなら、どうして人間は肉を食べた時に美味しく感じるのだと思う? と友達に聞いたら、そんな小難しい話は止めてくれと、煙たがられたことを思い出す。

その後、お坊さんになったので、本来、生物学的には自然なことであった肉食を、仏教的にどう解釈し乗り越えるかが、仏教者の務めだと考え始めるようになったのだが、台湾佛光山の創始者である星雲大師による「仏教の精進料理の問題に対する考え方」には、私が感じていた数々の疑問に対する答が、事細かに載っていた。

植物を食べることも他の生命を蝕んでいることに変わりはないではないかという考え方についてや、また、生活のために殺生を生業としている人について、仏教的にどう考えるべきなのかという問題についても、慈悲に富んだ解釈をなされている。

実際、精進料理の問題は、仏教的な意味での慈悲心と極めて不可分なのだが、この問題に興味にある方は、是非機会があれば、日本語版「仏教の精進料理の問題に対する考え方」を実際に手に取って頂きたいと思う。

台湾獅頭山の食堂(じきどう)写真

2011年1月台湾・浄覚院の厨房

2011年1月苗栗市内の素食店