僧院と僧坊

お坊さんは本来、庵や樹の下、岩陰などに住んでいた。やがて雨期の3ヶ月は建物に定住することになり、初期の僧院ができた。これをインドではヴィハーラと呼び、漢訳では精舎と言う。祇園精舎の精舎である。

お寺は祈ったり、願い事をする場所でなく、あくまでもお坊さんが寝起きする場所、修行するための道場であった。アジャンタ、エローラ、バラーバルといったインドの石窟寺院を見ても、お坊さんの住む僧坊は石を切り出したベッドが一つあるきりの部屋だ。

やがてヴィハーラにはチャイティヤと呼ばれる礼拝所が造られるようになり、寺院の形式が整い出した。本堂、講堂、僧坊、鐘楼、塔といった、我々が教科書で習うような伽藍の内容は、配置はともかく、上座部仏教でも大乗仏教でもほぼ同じだが、その歴史を振り返れば、最も大事なのは僧坊だとわかる。

小さなお寺では本堂と庫裏があればいい方だが、たとえ小さくても、寺は神社と違って、何かを祀ったり拝んだりする場所でなく、お坊さんの住む僧坊、心を整えるための道場でなければならないし、参拝する人が心を浄め、気持ちをすっとさせる場所であるべきだと思う。


原始仏典で庵を表す言葉には以下のようなものがある。

アランニャ 

静かな所という意味。阿蘭若と音訳される。たまに日本のお寺で、境内の施設を阿蘭若と名付けているのを見ることがある。

アーサマ 

サンスクリット語のアシュラーマ、即ち現代ヒンディー語のアシュラムだ。ヨガの道場や、ガンディー、ヴィノバの思想を継いだ施設などもアシュラムと呼ばれる。

クティー 

簡素な小屋のこと。日本語の庵という言葉に一番近い。上座部仏教では僧坊を指すが、現代インドでは本当に粗末な小屋を言う(クティーकुटीもしくはクテイールकुटीर。庫裏という言葉がクティーの音訳だという説もあるが、真偽は不明)。

写真はビハール州にあるコレシュリという山岳寺院で見たサドゥー(ヒンドゥー行者)のクティー。因みに英語のhutは小屋のことだが、hermitageという言葉は、hermit(世捨て人、仙人)の家、という意味だから、より庵に近いニュアンスだ。

チャイティヤ

パーリ語ではcetiaで、これが訛ってタイでは仏塔のことをチェディーと言う。「南アジアを知る事典」(平凡社)の「チャイティヤ」及び「建築」の項も参照のこと。また「大乗仏教興起時代 インドの僧院生活」(春秋社)には、初期の僧院の日常生活の実態が描かれていて興味深い。


タイの寺院建築

ウボッソ 

本堂。ただし四方にシーマと呼ばれる結界があることが条件で、ここでしか得度式及び戒律の確認儀式である布薩式はできないから、日本で言うところの戒壇堂であるとも言える。

ウィハーン

講堂。ヴィハーラが訛ったもの。日本語のガイドブックなどでは礼拝所と訳されていることが多い。

クティー

僧坊。大きな寺ではマンションのようなクティーもあるが、バンコクのお寺ですら高床式の素朴なものが多い。バンコク以外の瞑想寺院では境内に、より一層簡素な小屋が並んでいるのが普通だ。写真はプラユキ・ナラテボー師のおられるワット・パー・スカトーにあるクティーの一つ。

サラー 

休憩所。タイ語で東屋(あずまや)を指す言葉なので仏教建築とは限らないのだが、お寺の場合には必ず仏像がある。日本のお寺で言えば茶所(ちゃじょ)だろうか。ウボッソがなくてウィハーンだけの寺や、ウィハーンが小さくてサラーが本堂のようになっているお寺もある。

各国の僧坊

元々は僧坊だった奈良の元興寺の禅室を見ると、仏教が日本に入って間もない頃は、日本のお寺でも現在の台湾や韓国のお寺と同じく、比丘たちが戒律を保って僧坊で僧院生活を営んでいたことがわかる。

禅宗の僧堂のように、今も独自の形式を守っている僧坊もあるが、現在の日本では近代的なごく普通の宿舎が僧坊となっているお寺も多い。それでもお坊さんが住む場所ならばどんな形を取るにしろ、そこはやっぱり僧坊だ。

上の画像は元興寺の僧坊であった現・禅室

台湾・獅頭山
台湾・獅頭山
韓国・梵魚寺
韓国・梵魚寺
京都市内の某本山境内
京都市内の某本山境内
韓国・通度寺
韓国・通度寺

日本の庵あれこれ

「わが庵は 都の巽 しかぞ住む」でおなじみの喜撰法師の庵は宇治の喜撰山に、「これやこの 行くも帰るも 別れては」と詠んだ蝉丸を祀る神社は京都と滋賀の境の逢坂山にある。

「方丈記」の鴨長明が方丈の庵を結んだ跡は、京都日野の法界寺にあるが、同じく京都の下鴨神社には、実物大の方丈庵が再現されている。

京都の双ケ丘には兼好法師の墓が、大阪の天下茶屋には兼好法師の庵跡がある。

大徳寺と一休寺以外の一休さんに関する旧跡としては、京都木津川瓶原(みかのはら)の慈済庵、大阪高槻の譲羽山、大阪住吉の牀菜庵(しょうさいあん)跡などがある。

西行庵の跡は、京都の双林寺や大阪河内の弘川寺、奈良の吉野山など、日本各地にある。伊勢には西行谷という旧跡があり、ここは芭蕉が「芋洗う 女西行ならば 歌よまん」という句を詠んだ所でもある。

お坊さんではないけれど、芭蕉の庵も、伊賀の蓑虫庵、滋賀の幻住庵、京都の金福寺、深川の芭蕉庵などに再現されている。

 

・引きよせて むすべば草の庵にて とくればもとの 野ばらなりけり (慈鎮和尚:一休道歌より)

 

・竪横の 五尺に足らぬ草の庵 もすぶもくやし 雨なかりせば (仏頂和尚:奥の細道より)

 

「そこらへんの草を結んだだけの庵だから、ほどいたら元の野原があるばかりだ」

「そんな草の庵ですらが修行の邪魔だ。雨さえ降らないのならば、草の庵ですら、もはや私には必要ない」 

そこらへんの空き家を庵にして住んでいても名僧と慕われた良寛和尚も、やはり同じ気持ちだったことだろう。

 

在家から出家したのに職がない、寺がほしい、庵がほしいと嘆くお坊さんは多い。だが自分が本当の意味でお坊さんであるならば、寺がなくても自分が住む場所は、すべて本当の意味で庵であり、また僧坊であるはずだ。