定印

定印とは坐禅をするときの手の形のことで、禅定印とも言う。もしも日本で坐禅をしたことのある旅行者がアジア各地の仏像を見たら奇妙に思うかも知れない。手の重ね方が反対だからだ。

日本の坐禅では右手の上に左手を重ねているのに対し、熱帯アジアの仏像は左手の上に右手を重ねている。

本来ブッダは左手の上に右手を重ねていた。だから現在でも上座部仏教諸国では左手を下にして瞑想するし、仏像も左手を下にしている。チベット系の仏教も日本の密教も左手を下にする。

一方で中国に入った仏教は天台宗の祖である天台大師智顗が右手を下にすると決めて以来、それが中国や日本の天台宗や禅宗に受け継がれて現在に至っている。このため、中国や日本の仏像や祖師像には右手が下のものも左手が下のものもあるが、インドやチベット、東南アジアの仏像が定印を結んでいる時は、必ず左手が下になっている。

坐禅をした事のある日本人

私が駐在していたインド・ブッダガヤの日本寺には、当時駐在主任だった日本人上座部僧・三橋ヴィプラティッサ長老がおられた部屋に挨拶もなしに入って来て、「ここは坐禅できるの? 坐蒲はある?」などと聞きながら、結局坐禅の時間に現れなかった年配の男性や、「本堂が開いてる時は勝手に坐禅させてもらっていいですか? あ、ぼくのは坐禅といってもチベット密教の方なんですけどね」と尋ねて、そばにいたチベット人に「タシデレ(こんにちは)」などと言いながら五体投地しつつ帰って行き、やっぱり二度と来なかった青年など、いろんな方が訪ねて来られたものだ。

天台宗の定印

日本の天台宗は中国と違い、密教をも取り入れたので、坐禅をする時は右手が下、密教の行をする時は左手が下と使い分けている。なお、定印の手の上下の変遷については、「禅の思想」(田上太秀著・東京書籍)に詳しい。

アジアの仏像

アジアで見かける仏像には、禅定印で坐禅している像の他に、右手の指先を地に付けている降魔印像が多い。また右脇を下にして横たわる仏像には、ブッダの入滅(死去)を表す涅槃像と、単に休息を表す寝釈迦像(英語ではreclining Buddhaと表記される)があり、区別が必要だ。ブッダの横臥像のさらなる区別については、「タイ現代カルチャー情報事典」(ゑゐ文社)に詳しい。

 

アジアの合掌

インド、ネパール、スリランカ、タイといった国々では挨拶の時に合掌する。ヒンドゥー教やテーラワーダ仏教のようなインド文化が伝わった地域の習慣なわけだが、ではそもそもインドではなぜ手を合わせて挨拶するようになったのだろうか?

お縄を受けるように両手を差し出す絶対服従のポーズが相手への帰依を表わすことになったという説もあれば、不浄の左手と浄の右手を合わせるという、仏教にも取り入れられたインド的解釈もあり、合掌は浄不浄を超えた仏の境地を表わす、などと説明されたりする。

中国の拱手、中国伝来と思われる日本の仏教や神道の叉手、キリスト教の按手など、地球上には洋の東西を問わず手を合わせる挨拶や作法がいろいろあるし、仏教には様々な種類の合掌法が伝わっているところを見ると、両手を合わせるという行為は仏教徒に限らない、人類共通の動作かも知れない。手や指の発達が道具の使用と共に人類の脳の進化を促したのだから、手を合わせることが精神の安定に影響し、心を落ち着けるから合掌するようになったのかも知れない。

 

ところで、お坊さんはどの国の、どの宗派のお坊さんであっても合掌する。違う国のお坊さん同士も合掌するし、日本でも他宗のお坊さん同士が合掌しあう。

中国系仏教国である中国、台湾、韓国、日本などでは、仏教徒同士は挨拶の時に合掌する。

お坊さん同士であっても、或いはお坊さんと在家の信者同士であっても合掌しあう。

ただ、これらの国では一般人同士の挨拶は合掌ではない。

ちなみに、日本に関しては、日常の挨拶に合掌はしないものの、寺院の参拝のみならず、願いを込めたり感謝の意を表す時、合掌は馴染み深い仕草だ。

 

インド及びタイやスリランカなどの上座部(テーラワーダ)仏教国では、お坊さん同士も合掌するし、一般の人々も挨拶時に互いに合掌しあう。

ただし、テーラワーダ仏教のお坊さんは、一般人に対しては合掌しない。別に僧侶がお高くとまっているという訳ではなくて、僧侶や仏教に対する考え方の違いによるものだ。

日本では在家の人間よりずっと合掌する機会の多い日本人僧侶である私としては、タイでの修行中、お坊さん以外の相手に合掌できないのは少々つらかった。アジアでの上座部僧としての体験は、何物にも変え難く私の中にあるけれど、ただ一つ、心置きなく誰に対しても合掌できることだけは、日本仏教のお坊さんである今の私にとっての、大きな喜びだ。